■偉人にインタビュー⁉︎
旧石器時代から現在の令和時代までさまざまな出来事が起こった日本。その歴史は、数々の人によって動かされてきました。もし、日本史の教科書で紹介されるような人物に、今、話を聞いたら何を語るのか? そこで、伝えられてきた偉人それぞれのイメージと実績がわかる、インタビュー風の記事を作成。
今回登場してくれたのは、太宰府天宮にまつられ、“学問の神”として信仰されている菅原道真さんです。
山城国(京都)出身。幼少からさまざまな文学に触れる。862年、朝廷の試験に合格し、文書生となる。
886年、讃岐国(香川)の国司に就任。帰京してしばらく経ったあと、宇多天皇に期待されて右大臣を任された。
その後、ある出来事がきっかけで島流しに。太宰府で生涯を終える。
桓武天皇にインタビュー!
ご出身は?

山城国です。現在の京都になります。家は貴族ではありましたが、上級貴族ではないということは幼い頃からなんとなく察していましたね。
菅原家は、代々学問の分野で朝廷に仕える学者の家系。文書(もんじょ)という日本の出来事などを記す史料づくりに携わっていました。
学者の家系となると、やはり早い時期から勉強を?

ほかの家がどうなのかわからないないですけど、5歳のときにはすでに和歌は詠んでましたね。幼少の頃から紀伝道という中国の歴史や文学も学び始めて、11歳で漢詩を読み始めたって感じです。
教育熱心なご両親だったようで。

そのおかげもあって、17歳のときに朝廷の試験を受けたところ合格。晴れて文書生になったわけです。その後も順調にステップアップして、22歳のときに文章行業生となり、33歳のときに文章博士に就任しました。
絵に描いたようなエリート人生。やはり、たくさん勉強したんですか?

誰かと比べたことがないからなんとも。でも、勉強は嫌いではなかったかな。いろいろ学んで、それが知識となっていくことには充実感がありました。
ただ、常に成績が上位だったので、周りから妬まれることも多々ありましたが。
秀才ゆえの悩み。

でも、当時の天皇だった宇多天皇が評価してくれて、僕は徐々に政治にも携わるように。讃岐国の国司に任命されたこともあるんですよ。
博士になって政治家の経験も。

ありがたい話ですよね。
で、国司を終えて都に戻ってきたら、今度は遣唐使の依頼が。ただ、この話はお断りしました。
どうして?

当時、唐は乱れていましたし、学べることも少ないかなと見ていたんです。
そして、そのとき日本が財政難だったことも関係しています。唐へ渡るのは莫大なお金が掛かりますから、遣唐使の費用に使うよりも国の予算に回すべきだなと。
なるほど。

あと、唐へ渡るときは船を使うんですけど、航海って非常に危険を伴うんです。命を落とす可能性もありますから、そんなリスキーな依頼は受けることはできません。それ以降、遣唐使は廃止になりましたね。
費用対効果とリスクを考えたうえの判断だったんですね。

はい。割と効率を重視するタイプなので。当時、天皇だった宇多天皇も似た考えだったみたいで何かと頼りにしてくれました。
あれこれと業務を任されるようになり、なんと右大臣の話が。
それはすごい。

ただ、私の家は身分が高くありませんし、そもそも学者だったものですから。周りからの反感を買うのではと思って一度はお断りしたんです。
でも、「君の力がどうしても必要だ」と言われて。いろいろと問題は起こるだろうなと思いつつも、右大臣に就任することを決めました。
就任後のお話を。

まあ、予想通りでした。朝廷内で中傷される毎日。宇多天皇がいたから、大きな問題にはなっていませんでしたけど。
宇多天皇が退任後、最悪の事態に。
何が起こったんですか?

私が娘婿を皇位につけようと計画している噂を流されて。もちろん、天皇の座を狙うことなど考えたこともありません。
しかし、そんなデマの噂をきっかけに私は死刑の次に重い流罪。太宰府へと流されることに。その後のことは想像にお任せします……。
菅原道真のその後は?
華々しい都の生活から一変。衣食住にも困るほど苦しい生活となり、太宰府で生涯を終えました。
菅原道真が亡くなったあと、落雷により上級貴族が命を落とすなど不幸ごとが連続。道真の怨霊の祟りではないかと恐れられ、彼をまつる天満宮という神社が建てられたそうです。