中大兄皇子。大和国(奈良)出身。626年、舒明天皇の子として生まれる。
645年、中臣鎌足たちと蘇我氏を滅ぼす(乙巳の変)。大化の改心を進める中心人物となり、さまざまな制度や法を定めた。
668年、即位し、天智天皇となる。


出身は、大和国です。今でいうと奈良ですね。
天皇になってからは難波や近江、現在の大阪や滋賀などにも移りました。
即位してからは天智天皇。その前は、中大兄皇子という名前でしたよね。

はい。天智天皇と中大兄皇子が同一人物って把握してもらえてるかな(笑)。
というのも、教科書などでは“中大兄皇子”として紹介されることが多いもので。中臣鎌足とニコイチで覚えている方も多いのではないでしょうか。
あと、蘇我氏を倒したエピソードと一緒に。
その出来事は、誰もが聞いたことがあると思います。“大化の改心”もセットで。

そうですね。
ただ、“大化の改心”関しても誤解してる方がいるかなと。蘇我氏、ここでいう蘇我入鹿を倒したことは、大化の改心ではないんです。その事件は乙巳の変と呼ばれる出来事。本能寺の変や桜田門外の変などと同じ部類になるかと。
ちなみに、なぜ蘇我入鹿さんを?

そのとき、皇極天皇という女性の天皇が政治を行っていました。
しかし、実権を握っていたのは蘇我氏。自分に都合のいい政治をしていたわけです。
どんな時代にも、そんな政治をする人はいるんですね。

ええ。あきれてしまいますよ。
でも、実は山背大兄王という聖徳太子さんの息子が天皇になるという話もあったんです。非常に能力が高く、家柄もいい。人格も素晴らしく、天皇にふさわしい方だったと思います。
しかし、考えてみてください。そんな優秀な人物が天皇になってしまったら、サポートは必要なくなりますよね。つまり、蘇我氏は思い通りの政治ができなくなるわけです。
そう考えた蘇我氏は、山背大兄王一族を滅ぼすことに……。

その出来事を聞き、私も他人事ではないなと。
というのも、私は舒明天皇と皇極天皇の間に生まれ、天皇の候補のひとりでした。
しかし、そんな状況で即位しても蘇我氏の操り人形になるだけ。それなら、先に手を打っておくべきだと考え、中臣鎌足などいろいろな方に協力してもらったわけです。
乙巳の変には、そういった背景が。

その後、日本を大きく変える流れを作れたので、よかったと思っています。
かなり話は逸れましたが、また話を大化の改心に戻して、誤解のないように説明させてもらってもいいでしょうか?
すみません、話の途中でしたね。ぜひお願いします。

大化の改心とは政治改革。そして“大化”というのは日本初の元号なんです。令和、平成、昭和と、いろいろありますが、その最古が“大化”になります。
この元号を決めること、それすなわち、この国の時間は我々で管理すると宣言したことになる。決めておかないと、例えば唐から「うちの元号を使うように」と言われ使ってしまうと、その後、子分のように扱われる可能性がありますから。
国際関係も考えた改革だったわけですね。

ええ。もちろん、内政を整えることも。私としては、天皇を中心とした国づくりをしたかった。そこでまず、都を大和国(奈良)から難波(大阪)に移しました。
都を変更した理由は?

滅ぼしたとはいえ、大和国にはまだ蘇我氏の強い影響が残っていたんです。彼ら一族が権力者であったほうが、都合がいいという豪族もたくさんいた。そういう方に邪魔をされず政治を行いたかったので、蘇我氏の影響力がない場所に都を移さなければいけませんでした。
土台から変えなければいけないと。

はい。それまで豪族が支配していた土地や人々を、国で管理することにしたかったんです。いわゆる公地公民。これが最善策だなと考えました。
そして人や土地を管理するため、戸籍をつくることに。名前、族柄、性別、年齢が、記載された台帳を発行。その戸籍情報をもとに口分田、いわゆる田んぼを分け与える班田収授法を制定しました。
かなりのスピード感で政策を打ち出しているかと。

バランスの崩れた政治により、すぐに体制を立て直さなければいけない状況でしたから。スピード感を持って政治を行うために、天皇にはしばらくは即位せず、皇太子という身動きの取りやすい立場にいました。
天皇になったのはいつ頃ですか?

たしか668年で、42歳くらいでしたかね……。
あ、もしかして、皇太子の立場が長かったから、教科書では“中大兄皇子”として紹介されているのかもしれませんね(笑)。
短い間でしたが、即位して天智天皇としても政治を行ったので、ぜひ覚えてください。
天皇を中心とした国づくりのために、スピーディーに政策を打ち出した中大兄皇子(天智天皇)。日本初の、元号をたてたり、戸籍を発行したりと、今の日本の基盤をつくったともいえる人物でした。