全ては理想の国づくりのために。傑出した才能を全て大和に捧げた皇太子の物語

聖徳太子(574-622)。飛鳥出身。馬小屋の近くで生まれたため、厩戸の皇子とも呼ばれる。
幼少の頃から数々の逸話を残し、その才能を成人後もいかんなく発揮。摂政に就任し、生涯に渡って多数の功績をおさめた。
多くの人に慕われ、ついたキャッチコピーは日本の釈迦。



天皇家に生まれた神童。数々の逸話を残すも、運命によって閉ざされた天皇への道

--本日は貴重な時間をインタビューに割いていただきありがとうございます。

いえいえ、とんでもない。遠慮せず、なんなりと聞いてくださいね。

--はい。では、まずご出身から。

飛鳥です。あ、今の奈良県ですね。当時の奈良は日本の都、いわゆる首都でした。まだ500年程度と歴史の浅い日本でしたけど、国の中ではかなり栄えていたんですよ。食べるに困ることもなく、勉強もしっかりできる環境。それは、私が天皇家に生まれたというのもありますが。

--羨ましい限りです。

私自身、非常に誇らしいと思っています。
ただ、将来への不安はありました。ほかの人からすれば贅沢な悩みだと思われるでしょうけど。

--どんな悩みが?

将来的に、私が天皇に即位する可能性は極めて低いということですね。
実は私、第二皇子なんです。ちなみに父はのちの用明天皇。もちろん可能性がゼロではありませんが、やはり第一皇子を優先して天皇に即位させるのが自然な流れ。こればかりは仕方ありません。悩んだところで、生まれる時期や母親を選ぶことはできませんから。たとえ、勉強をがんばって優秀な人物になったとしても、その現実は変わらないんです。

--悩みがあったとは意外です。幼少の頃から数々の逸話を残されて、一目置かれていたと思っていたので。

もしかして、あれかな。「何人もの話を同時に聞き分けられた」とか「生まれながらにして話すことができた」とかですよね。2つめのエピソードに関しては、生まれた瞬間のことだから、正直な話、よく覚えてなくて(笑)。まあ、でも自分で言うのもなんですけど、割と要領よくこなせるタイプだったとは思います。
そんな私を、母方の大叔父に当たる蘇我馬子さんが見込んでくれてたみたいで。当時13歳だったんですけど、そのとき内乱が起こっていて招集されることになったんです。

--ちなみにその内乱とは?

日本に仏教を取り入れるか取り入れないかで、蘇我氏と物部氏の対立していたんです。この内乱をどちらが制するかで、今後の日本の未来は大きく変わるだろうなと、私だけではなく、多くの方が考えていたことでしょう。

19歳で摂政という立場に。風習にとらわれず、自分が信じる理想の国づくりのため尽力した

--詳しくお聞かせください。

はい。まず、仏教を取り入れることに反対しているのが物部氏。彼らの祖先が日本の神だったので、非常に敬意を払っていて仏教に抵抗があったわけです。
一方、蘇我氏は、日本を発展させるためにも仏教を取り入れるべき必要があると考えていた。当時の日本、大和国には天皇はいるものの、各地の豪族もそれなりに力を持っていたので、まとまりがなくて。諸外国では仏教の教えのもと、絶対的なリーダーを決めて統率したことにより、国の目指すべき方向が定まって、発展したという例がいくつもあったんです。私も仏教を取り入れることに賛成していたので、蘇我氏の軍が勝つように尽力しました。

--結果は?

いろいろと大変なことはありましたが、なんとか蘇我氏の軍が勝利。そして、仏教を取り入れた天皇中心の国づくりが始まりました。
で、私の内乱のときの活躍を認めてもらい、天皇をサポートする摂政に大抜擢されたわけです。天皇は初の女性。そして、私の叔母である推古天皇。
そのときの私は19……。

--若い。

不安がなかったかと言えば、嘘になります。
ただ、天皇になれる可能性が限りなく低い私にとっては、政治の実権を握れる立場でいられるのはここしかない。拝命することに迷いはありませんでした。

--就任後は、いろいろな政策を実施したとお聞きしています。

天皇中心の国づくり、いわゆる中央集権国家をつくるには改革が必要だったので。それに当たって、やはり優秀な人材が必要となってくる。そこで打ち出したのが冠位十二階。家柄ではなく、能力や実績に応じて役職を与えることにしました。今までのように家柄のおかげでいい役職に就けた役人の中には、それに甘んじて業務をサボるような人もいた。これは、摂政になった自分への戒めでもあります。

--そういった意図もあったんですね。

ええ。各地の豪族たちの中にも「優秀な人材がいるのでは?」と期待もしていましたし。ただ、そういった方々たちとは、価値観が全く違った。同じ大和国ではあるのですが、各地によって文化などが異なるので、仕方ないんでしょうけど。だから、どんなに優秀な人材だとしても、なかなか足並みを揃えることが難しくて。それで、役人は同じ心構えを持つ必要があるなと考え、つくったのが十七条の憲法だったんです。
とにかく国をまとめなければと、私は必死でした。

自国だけではなく諸外国にも目を向けて。現状を把握し、先を見据えるは大和の未来

--早く理想の国をつくりたかったと。

もちろん。あと一つ理由がありまして、近くの国の隋、今でいう中国の動きが気になっていたからです。

--というと?

以前は連合国だったですけど、その頃に統一されて隋という大きな国になったんです。それにより国として大きな力を持つことに。諸外国にも勢力を伸ばそうと、活発な動きを見せていた。
もし、その手が大和国に伸びようものなら、太刀打ちできません。だから、急いで国づくりを進める必要があったんです。

--しかし、遣隋使を派遣したこともあるとお聞きしています。

はい。ただ、それはしばらくして、隋の動きに変化があったとき。というのも隋は、勢力を伸ばそうと動いたはものの、揉めていることも多々あって。これ以上揉めごとは増やしたくないだろうというタイミングを見計らって派遣しました。
小野妹子に持たせた手紙の内容は、ちょっと煽りすぎたかなとは思いますけど(笑)。

--(笑)。確信があったみたいですね。

ええ、それなりに(笑)。まあ、妹子はヒヤヒヤだったみたいですが。非常にがんばってくれたと思います。
でも、実際に隋が攻めてくることはなかったし、それによって対等な関係を結べましたから、よしとしましょう。

--これまで数々の功績を残してきましたが、振り返ってみてどうですか?

そうですね……。少しは今の日本の政治の基盤をつくりあげることに貢献はできたかなと。心残りがあるとすれば、その後の発展を見届けられなかったことですかね。
ただ、私がプロデュースした法隆寺などは、今でも残っている。いろいろな方々が見て、当時の時代を感じてもらえているのは、非常によろこばしいことだと思います。

--最後に、今の日本の政治についてどうお考えですか?

うーん、時代によって国の状況は違いますからね。私が摂政をしていたときとは違う難しさがあるはず。だから軽々しく、あーだこーだとは言えません。
一つ言えることがあるとすれば、和をもって貴しとなす。これだけは時代が変わっても、通ずることだと信じてます。

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